大手の全国紙でも大きく扱っていましたが…
(以下、産経新聞より)
――ユニホームを脱ぐ理由は 「ここ何年も今年が最後と決意を固めてきたが、今年1月に母校・早大の東伏見グラウンドで練習したとき、思うようにボールが投げられず、『監督に迷惑をかけるようなら辞めないといけない』と思った。5月に監督に呼ばれて『少し休め』と(2軍降格を)言われたとき、自分の中で腹をくくった」
――引退後の予定は 「8月に球団に呼ばれて来年以降の話をしたとき、本当にありがたいオファー(石川晃球団副代表によれば、来季の現役続行、もしくはコーチか球団スタッフとしての残留を要請)をいただいたが、より広い意味で球界に尽力したいと考えた。特に最近はプロとアマの垣根を取り払おうという動きが進んでいる。そういうところで力を貸せたらと、まず第一に(母校の)早大のことが頭に浮かんだ。(具体的な予定は)まだまったくこれからですが」
――野球人生で一番の思い出は 「(大リーグ・メッツ入りした)2002年、本拠地のシェイ・スタジアムで開幕セレモニーを迎えた瞬間。そこへ至るまでの経緯はいろんなこと(ロッテからの戦力外通告など)があって、奇跡的な野球人生といっても過言じゃないでしょう。もう一度あのころへ戻れたらと思うことはあります」
――日本のプロ野球では 「やはりロッテで日本一になれたこと(2005年)ですかね。ベストピッチは1997年10月(6日)の神戸でのオリックス戦。まだイチローがいたころで、八回まで無得点に抑えましたが(九回は抑えの河本育之投手が完封リレー)、自分の野球人生の中で一番狙ったところへボールがいった試合でした」
――バレンタイン監督との日々は 「1人の野心家(バレンタイン監督)が95年にロッテへ来て、自分の力を発揮できずに帰国したが、もう一度(04年に)戻って前回の失敗を踏まえ、相当に計算して日本一となり、たくさんのファンを獲得した。僕にとってのボス。(選手としては)ロッテと契約する身だが、ボビーに声を掛けられ、手伝いに来たという認識だった。(監督は)おそらく不本意な形での退団となったが、力を貸せず、申し訳ない気持ちです」
――チームの若手投手にひとことを 「一度しかない人生の中、野球がどのくらいを占めているかと聞かれて『すべて』と言い切れるくらいじゃないと大成しないと思う。祐太(大嶺)も唐川(侑己)もまだやるべきことはたくさんある。神様がすべての人間へ平等に与えてくれた24時間をもっと上手に使えればいいのにと物足りない気はする」
――自分にとって野球とは 「色紙に書いている言葉ですが、『神様が与えてくれた最高の娯楽である』ですかね。当面はまだ大きなイースタン(2軍)の優勝がかかっているので、そちらへ全力を注ぎます」(そう言い残し、会見場を後にした)
まだできると思っていたのですが…
これからはグラウンドの外から球界を支えてください。
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